京都が誇る伝統工芸
モニターツアー京都に息づく最高峰の手技
日本の伝統工芸を支える職人の技。ある工房ではひそやかに、また別の工房では時代に合わせたやり方で、それぞれに工夫を凝らしながら継承され続けてきました。
その技から唯一無二の工芸品が生みだされる場所へ足を運び、見て触れる体験は、より深い文化理解を促進し、インバウンドの新たな可能性を開きます。
※現在、上記の工房では、個人的な見学を受け付けておりません。ご了承ください。

世界でここだけが作る、魔境の神秘に触れる
山本合金製作所

創業は江戸末期。こちらの工房では、鋳型に流し込んで固めた銅をやすりで磨いて作る「和鏡」を製作している。和鏡の技法は平安時代から伝わり、明治期にガラス製の鏡が登場するまでこの技法で作られた鏡が使われていた。現代では主に「神鏡」として神社や寺に納められており、一般の人の目に触れることは少なくなっている。
かつて京都には和鏡を作る工房が10軒以上あったそうだが、現在では山本合金製作所が唯一の工房。そこで鏡づくりの技を受け継いでいるのが五代目の山本晃久さん。和鏡の製作工程は、大きく「鋳造」「削り」「研ぎ」の3つに分かれるが、それぞれの工程の習得に10年、1人前になるまでに30年かかるという。山本さんはそのすべての工程を一人で行い、鏡作りをしている。


センという道具で鏡面を削ったあと、
駿河炭で磨いて仕上げる
山本さんの工房では、通常の和鏡のほか「魔鏡(まきょう)」と呼ばれる、反射光に鏡の背面の装飾が映し出される不思議な鏡も手掛けている。魔鏡は鏡面を極限まで薄くすることで、背面の柄が反射光に映る仕組み。その厚さは、わずか1ミリ。少しでも削りすぎると割れてしまうため、高度な技術が必要になる。長年の経験に裏打ちされた人の手の感覚が、その絶妙な加減を感知する。機械ではできない技だと言う。

キリスト像を映しだす魔鏡は、ローマ法王にも献上された
魔鏡の反射光に映し出されるのは阿弥陀如来像やキリスト像などで、布教活動にも使われてきた歴史がある。特にキリスト像が映し出されるキリシタン魔鏡は、江戸時代、隠れキリシタンの信仰に使われたという。一見普通の鏡に見えるよう、背面には別の柄を施したものをかぶせてキリスト像を隠すなどの工夫が凝らされている。


キリシタン魔鏡は二重構造になっており、
背面のキリスト像が隠されている
魔鏡が作られているのは世界で唯一、この工房だけ。山本さんの祖父がその技法を復元し、山本さんはその技を受け継ぐ「日本最後の鏡師」と言われている。
山本さんにこの先の技術の継承について尋ねると、「職人としては人や社会との関わりの中で、誰かの役に立ちたいという思いがある。国が保護するべきという意見もありますが、社会に必要とされて残っていくのが理想」と語る。
和鏡や魔鏡の技術に興味を持ち、工房を訪れるアーティストや海外からの旅行者も多い。彼らが新たに発見する魅力にも刺激を受けつつ、山本さんは柔軟に未来を見据えている。


鋳造の過程で出る端材をアクセサリーにしたり、銅を溶かす坩堝を鉢にしたりとアップサイクルにも取り組む。
偶然できた形が面白さを生み、アーティストの興味を誘うことも
大仏師の技と繊細な截金(きりかね)を
間近で見る
平安佛所

仏師・江里康慧氏と、截金師・江里朋子氏の親子が製作を行う工房。江里康慧氏は三千院と大本山瀧光徳寺から「大仏師号(だいぶっしごう)」を受けている仏師だ。「大仏師号」とは仏像の総棟梁の称号で、大仏師を受けている仏師は全国でも10名足らずと言われており、その中でも複数の寺院から受けているのは極わずかだそう。工房には制作途中の欄間や仏像、彫像などが並び、至近距離からその細かな細工を見ることができる。


工房内の様子。釈迦の生涯を彫った欄間(左)と
マリア観音像(右)
仏像には繊細な截金の装飾が施されている。截金とは、6枚の金箔を炭火で焼き合わせ、細く切ったものを貼り繋ぎ、繊細な文様を表現する技法。古来、仏像の荘厳性を高めるために用いられ、現在では限られた少数の截金師により継承されている希少な技だ。康慧氏の妻で截金の人間国宝であった故・江里佐代子氏から娘の朋子氏がその技を受け継いだ。
下書きができない細い線や細かい文様も、目見当で狂いなく規則正しい柄が施されていく。近くで見れば見るほど、その精緻さに驚く。仏像のほか、茶道具や衝立などの工芸品も手掛けているそうで、截金という技術の認知度を高めることに貢献している。


金箔の厚みはわずか1万分の1ミリ。
糊を含ませた2本の筆で貼りつないでいく


截金を施した香合。仏像以外にも茶道具や飾箱、
衝立などの工芸品も数多く手掛ける
工房内には康慧氏が製作した源頼朝像が鎮座している。静岡県島田市の智満寺の境内にあった推定樹齢800年の「頼朝杉」の倒木を使って作られたもので、神護寺の「伝源頼朝像」と東京国立博物館の「伝源頼朝坐像」をイメージしつつ彫られたという。背景には截金と砂子で伊豆の山並みや霞が表現されている。高さ1メートルほどあり、その存在感に圧倒される一方で、着色された色の下に透けて見える木肌や、装束の柄の美しさに吸い込まれそうな感覚を覚える。


頼朝杉から彫られた源頼朝像
「一刀三礼」という言葉がある。ひと刻みするごとに三度礼拝しながら行うという意味で、仏師はそのような信仰の心を持って仏像を彫るのだという。それは職人というよりは修行僧に近い。仏師は制作者であるが、制作者としての自我が消えることが目指すところだと康慧氏は言う。
平安神宮に程近い工房では、そんな終わりのない仏師と截金師の日々が静かに紡がれている。

織物を美術品の域にまで高めた
至高の技に出会う
龍村美術織物

龍村美術織物は1894年創業。130年の歩みの中で、正倉院の宝物裂や名物裂の復元から、新しい感覚を織り込んだ独創的な織物まで、数々の織物を世に生み出し、織物を美術品の域にまで高めてきた。
その高いデザイン性は海外のデザイナーも魅了し、有名ブランドのオートクチュールなどの作品に使用されている。名だたる劇場の緞帳、山車や神輿を飾る懸装品、和装の帯地のほか、カーテンやドレス地などのファブリックまで幅広く手掛け、ゆるぎない名声を博している織元だ。


初代から受け継がれる高度な技術と独創的な意匠で様々な絹織物を世に生みだしている
龍村美術織物の工場は丹後や滋賀にもあるが、こちらは京都市内にある烏丸工場。ジャカード織機による手織りの絹織物が作られている。ジャカード織機とはフランスの発明家ジョゼフ・マリー・ジャカールによって発明された織機で、京都西陣では1873年にフランスから機械と技術を導入し、近代化に成功、発展してきたという歴史がある。龍村美術織物の烏丸工場でも30台以上のジャカード織機が並び、複雑な模様の絹織物が織られている。


一本の帯地が出来上がるまでには全部で14の工程があるが、烏丸工場ではそのうち7つを見ることができる
龍村美術織物は「独創」と「復元」を基本精神とする。それは初代・龍村平蔵から連綿と受け継がれているものだ。初代は古代裂復元の第一人者として知られ、正倉院裂や数々の名物裂を復元した。中でも臨済宗大徳寺派早雲寺に所蔵される硯箱に装飾されている裂地を復元した「早雲寺文台裂(そううんじぶんだいぎれ)」は、クリスチャン・ディオールの目にも留まり、ドレス地に使われるなど、龍村美術織物の代表的な作品として今も人気を博している。


糸は何本かを撚り合わせて1本の織り糸にする。
糸の合わせ方次第で色は無限にあり、撚りによっても光沢が変わる
この秋、現社長が五代目龍村平蔵を襲名した。初代から受け継がれている精神は変わらないが、その代ごとに好みは違うという。二代目は国粋主義、三代目はフランス文化に傾倒し、四代目は南蛮文化に惹かれたそうだ。五代目が掲げるのは「和の開放と躍動」。京都随一の老舗の織元に、また新たな歴史が刻まれていく。

京都の風土から生まれる色の無限性に浸る
福田喜
(福田工芸染刺繍研究所)

福田喜(福田工芸染刺繍研究所)は1927年創業で、きもの地の染、縫(刺繍)、箔を一貫生産している工房。京都のきもの生産は専門の職人による分業制が一般的だが、刺繍の分野で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された先代の福田喜重氏が、刺繍だけでなく染めや摺箔も自身の作品の一環として自社で手掛けるようになったのが現在まで受け継がれている。


染め、柄付け、刺繍まですべて自社で一貫して行う
福田喜の染めの色調には独特のニュアンスがあり、空気感や奥行を感じさせるやわらかなぼかしが特徴だ。福田喜重氏は水の多い日本を「水蒸気文化の国」と言い、霧や霞が織りなすグラデーションをそのまま布に写し取ろうとした。その思いは今でも福田喜独自の美しいぼかし染めのベースとなっている。

飛行機の機内から見た空の色のグラデーションを再現した染
染料はゆっくりと乾いていく過程で色が深まる。エアコンの風などは大敵となるので、真夏の蒸し暑い時期でも冷房は入れず、閉めきった工房で作業を行う。京都の夏は暑く、湿度も高いため、自然と染料の乾きもゆっくりとなる。「環境をうまく取り入れながらものづくりをしてきたんでしょう」と代表の福田喜之さんは言う。


着物の反物は長さ12メートルほど。
ピンと張った状態で染料を含んだ刷毛で染めていく
色の出方は温度や湿度の影響で変わるため同じ色は二つとなく、染め上がった色によって柄付けを決める。「色の良さが前に出るように、空間に合わせて柄を入れる」と言う通り、地の色と柄や刺繍がお互いを引き立て合うように計算されている。
刺繍の刺し方も綿密に決まっているのではなく、全体を見ながら職人の感覚で進めていく部分が多いのだとか。2万色を超える色の中から糸を選び、様々な刺し方で線や面、立体感を表現していく。華やかな京友禅と比べるとシンプルで控えめな印象を受けるが、それが物足りなく映らないのは、色の確かな存在感と、刺繍によって柄に立体感が生まれることによるのだろう。


(左)染め上がった色に合わせ、顔料で柄付けをしていく (右)刺繍糸の色数は2万を超えるという
福田さんの工房では、思い描いた色を出すことへのこだわりは強いが、これまでと同じ色を出すことにはこだわっていないと言う。「今の人は液晶画面を見る時間が長いせいか、透明感のある明るい色が好まれる傾向にあるし、そういう色は古典的な柄とはあまり合わないんです」と、きものを着る人がどんな色を好むのか、洋服や化粧、ヘアカラーなど、現代のライフスタイルを横目で見ながら、その感覚を色に反映させている。
そうしたしなやかなものづくりに加え、最近では見学しやすいように工房の一部を改装するなど、発信にも力を入れようとしている福田喜。偉大なる先代から受け継いだ思いや技術、独自性を守りながら、時代に合わせた着実な歩みを続けている。

建築の歴史と伝統工芸の粋が織りなす
くつろぎの空間
柊家

創業は1818年。200年以上の歴史を誇る柊家は、貴族や皇族、政府要人、文化人などをもてなしてきた京都屈指の老舗旅館だ。建物は木造の数寄屋造りの旧館と、2006年に完成した新館から成る。旧館の最も古い部分は創業時の江戸末期のもので、現在も4部屋が残っているという。そこから明治、大正、昭和にかけて増改築を重ねてきた。館内を一周すると天井の高さや部屋のつくり、建具の細工などに時代ごとの趣を感じることができる。


(左)戦時中は陸軍がよく利用していた。
欄間に飾られている書は東郷平八郎が揮毫したもの
(右)もとは人力車の車寄せだったという玄関
新館は旧館と調和しつつも次世代へのまなざしが随所に感じられる。旧館が日本古来の美意識や精神性、歴史の重厚さを感じる空間であるのに対し、新館は現代的な快適性や伝統と調和のとれた明るく開放的な空間。どちらも柊家の理念である「来者如帰(わが家に帰ったときのようにくつろいでいただけますように)」が体現する、やすらぎと落ち着きがある。


苔むした坪庭の景色に歴史を感じる旧館(左)と
モダンな雰囲気の新館(右)
障子や欄間、床の間なども技巧が凝らされ、その一つ一つが工芸作品として鑑賞に値する。中でも特筆すべきは木工芸の人間国宝である中川清司氏作の床板。鳥海山の神大杉を使い、寄木細工のように何枚もの板の柾目が矢羽根の形になるようにぴったりと組み合わせられている。完成まで1年半を要したという。


(左)建てられた時代ごとの変化を感じる旧館の様子
(右)中川清司氏による床板がある客間
老舗旅館には、伝統文化を伝え、後継者を育てる使命があると女将の西村さんは言う。新館には客室のほかにパブリックスペースとして3つの部屋と大広間があり、集会やイベントなどに利用されている。宿泊客でなくても伝統工芸の粋を凝縮した空間に身を置き、それに触れられる機会となっている。

仕出し専門の和食店「瓢樹」の松花堂弁当。
四季折々の旬の味覚が詰まっている
京都には昔から、「仕出し」という独自の食文化がある。来客をもてなす際、自宅で料理したものではなく、仕出し屋から取った料理を出す。かつては町ごとに仕出し屋があり、家庭の2番目の台所のような役割を担っていた。柊家でもイベントなどでは仕出しの手配も行っている。老舗の旅館として食事つきの宿泊を提供することを主としつつ、場や空間をより開かれたものにし、次世代へ繋いでいく絶え間ない努力を続けている。